矢野大輔氏の通訳としての資質 |
2010-10-09 Sat 15:40
昨日のアルゼンチン戦、岡崎のゴールが決まった瞬間、それを感じた。
喜びを冷静に噛みしめるアルベルト・ザッケローニ監督とは対照的に、矢野通訳は我を忘れたかのごとくはしゃぎ回っていた。 通訳は監督そのものであるべきというのがボクの持論である。 例えば、イヴィツァ・オシムの通訳をする千田善はオシムそのものである。 もし、千田氏がオシムの喋っていることを、まったくデタラメにただオシムっぽく訳していたとしても、恐らく誰も気づかないだろう。 ジーコの通訳をする鈴木國弘、フィリップ・トルシエの通訳をするフローラン・ダバディも、まあ似たようなものである。 語学能力に関してはボクは素人なので何とも言えないが、単に言葉だけではなく、語気や雰囲気、佇まいも監督に似せるべきだろう。 もっとも、千田氏も最初から『オシム』だったわけではなく、当初は非常にぎこちなかった。 しかしながら、時間が経つにつれ、いつの間にか『オシム』になっていた。 だから、矢野氏がいつの間にか『ザッケローニ』になっていたということも考えられないことはないのだが・・・。 ![]() |
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